相鉄2000系と言ってもピンと来ない人が多いでしょう。
では2100系といえば浮かぶでしょうか。アルミ車体に田の字窓のあいつです。
今回の2000系はそのあいつの前身であり、相鉄の戦後復興を支えた17m級の名車です。
近年ではモニ2000系としてその姿を見ることができました。
太平洋戦争の戦乱の中で経営危機に陥った相模鉄道は、横浜駅西口で共に鉄道を走らせる東急の傘下に入り当時の大東急の一員となりました。そのお陰もあってか戦乱からなんとか抜け出し、東急からの独立も果たせたのですが、ここでひとつ問題がおきました。
-車両が足りません。
それは戦火の中で被災をし使えなくなってしまった車両が多くいるのはもちろんのこと、戦後を迎えた相鉄には戦後の復員輸送に耐えうる車両がなく、貧弱だったからです。
そこで相模鉄道では、とりあえず各地から使えそうな車両をかき集めてきました。その中から元小田急のものを1000系、17m級の車両を2000系、国電からの20m車両を3000系と名付け、相鉄の戦災復興の第一線として活躍しました。
ちなみに使えそうな車両なら何でもということだったのでしょうか、東京横浜電鉄(現在の東急電鉄東横線)から神中鉄道(相模鉄道の前身)時代に購入して使用していたガソリンカーキハ1形から形を変えたクハ1110形ですら2000系に取り込まれていたようです。
今回さなえファインテックで扱うのは元ガソリンカーとかではなく、その後の形態統一工事によって姿を変えた後のものです。近年までモニ2000系として活躍していたのとほぼ同じ姿になり、イエローカラーでモハ2000系として活躍しました。
モハ2000系として活躍した後は他の私鉄に譲渡されたり、20m級アルミ車体の2100系に成り変わったり、荷物列車用のモニ2000系として再デビューの後、事業用車として3回めのデビューを果たす車両もいました。他社譲渡組では伊豆箱根鉄道に残るコデ165形が事業用車兼けん引車として未だ現役、2100系は2004年まで、モニ2000系は2007年までそれぞれ活躍をしており、相鉄の戦災復興のトップランナーは相鉄の近代化を支え、その後はそのサポーターとして安全運行を支え、21世紀にまで名を馳せた名車となりました。現在も生き残りがかしわ台に静態保存という形で余生を送っています。
名車と名高いだけに鉄道コレクションも相鉄シリーズの中でも早期に発売され、忠実に再現された特徴的な姿に人気が高いようです。さなえファインテックではそれをベースにすこし凝ったことをしてみました。
さなえファインテックに在籍する相鉄2000系は5両で、うち3両は事業用車モニ2000系として活躍していた姿にしました。そもそもそうしてもらう狙いで今回の製品化だし、そのためのシールや別付観測ドームかと思うのですが、なんと2両セット!「なら3両セットにしろよ」とツッコミを入れたいところ。2セット買って観測ドームを付けるともれなく1両あまります。
まあこの頃の鉄コレの相鉄ラインナップが5000系や旧6000系だったのもあるし『モニ』として荷物車だった頃を再現したい人たちへの心づかいなのかもしれませんが。
さなたんの中での相鉄ブームが来るすこし前に割引だったので購入した。とそんな具合でして、さなえファインテック初の相鉄車両は半ば運命のような、偶然の出会いだったのでした。
今回のページ掲載に際して新たに撮り下ろした写真をすこしご紹介。
往年の相模大塚付近テイストの並びにしてみました。ここには海老名方に向かって左側に厚木飛行場へと繋がる線用貨物線があり、ジェット燃料を搭載したタンク車が往来していました。
写真はそんな場所の夕方の雰囲気で一枚。定期の架線検測を終えてかしわ台へと帰って行くモニと、ラッシュに向けて出動する8000系といった感じです。
1973年にモハ2000系としての役目を終え、モニ2000系としてデビューしたのは1975年のことでした。それから2007年の廃車まで30年以上の年月を第二・第三の人生として送っていました。そんなわけで相鉄の様々な時代の車両と邂逅しており、いわば生き証人です。
ただ、写真の11000系とは入れ違いで引退していて、引退後にかしわ台でしか出会っていないのでした。
廃車になったのは2007年でしたが、2006年の夏には後継のモヤ700系は定期検測の作業を開始していて、わずかながら共に現役として在籍していた時期がありました。
旧型車に観測ドームを取り付けただけで、作業員が目視で検測していたモニ2000系には雨天や暗所では検測ができないことが弱点でした。モヤ700系ではサーチライトを搭載し、ビデオカメラで記録ができるようになったことで天候などに左右されず、デジタライズな検測ができるようになりました。名車も時代には勝てないのです。
ちなみにその搭載したサーチライトを全点灯できるマイクロエースのモヤ700系もなかなかの名商品です。
残りの2両は原型であるモハ2000系に復帰してみました。
さらに黄色だとつまらないのでそれより前の緑色の塗装にしてみました。でも作ってから思いましたが、旅客車両時代でなおかつこの緑の塗装は形態統一工事施工前の組み合わせでした。まあどちらにしてもそのものズバリにはなり得ませんし、タイプということで馴染みのない戦後まもなくの雰囲気を出してみました。多分この色だとED10形ですら並んだかどうか怪しいかもしれません。3000系とか5000系とよくマッチします。
サイドから。
■2016年05月:作りなおしました
前回のが自分の中で汚いわ似てないわで大不評だったので塗装塗り直しを実行。
今度は緑にジェイズの緑14号(踊り子色)を、窓まわりのベージュにはクリーム色4号(特急型EC/DC色)を採用。文献を読んでいくとボディはブルー系・窓まわりはグレーなんて書かれていることが多いのですが、写真によっても色味が違うのでいちばんそれっぽい色合いの2色を採用しました。
また車番を貼付しました。
ベースの車両がもともと原型の頃の姿ではないので、この辺は完全にフリーでいわゆる『タイプ』状態なので京急2000形のインレタから使えるのをピックアップしました。2004号と2020号です。
-相鉄2000系でした。
文章も打ち終わって上からざっと最終チェックをしていて、貫通型の顔しか写っていないことに気が付きました。というわけでおまけ的に最後に載せておきます。
塗料が不足していたのはもちろんでしょう
そんな中でも明るい色にし、復興へ上を向いて歩いてゆけるように
当時の相鉄にも東急にも無かったこの黄色を選んだのかもしれません
21世紀の相鉄は『幸せの黄色い電車』のおかげで前進しています
おわり。